kzhr's diary

ad ponendum

作者について

作者については、如信説、覺如説、唯圓説が行はれた。如信説は深勵によつて、唯圓説は了祥がその主格である。如信説は覺如がまとめたとされる「口傳抄」などの書物に親鸞より如信に口傳が行はれ、さらに覺如がそれを授けられたとあることにより、唯圓説は唯圓の名が作中に出てゐることや、本文の流れからして關東の者であることによつてゐたが、概ね唯圓説が定説となつてゐる。編まれた時期であるが、親鸞が死してより30年の後と考へられてゐる。

背景

作者唯圓は善鸞事件の折に親鸞より直接話を聞いたものであつた。善鸞事件とは何かと言ふと、親鸞が東國から急に京都に歸つた後、東國での動搖に對し、親鸞は息子の善鸞を送ることで對處しようとした。しかし、善鸞は自分は親鸞より眞に往生する道を教はつたと嘯き、念佛は地獄行きの種であると言つた。それを知つた親鸞善鸞に對し親子の縁を切つたのが、事件の顛末である。その後、關東から上洛して親鸞に事を質したのが唯圓を含めた一行だつたのである。

親鸞の死後、親鸞の教へであつた「自力の心を捨てて阿彌陀佛にすがる」といふものとは違ふ義を教團内で唱へる者が現れた。唯圓はそれらの説が教へを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。

これに、唯圓が本願寺を開き、口傳抄の作者である覺如に親鸞の教へについて教授したこと、口傳抄に、歎異抄と類似した文が含まれることを加へて鑑みると、覺如の要請により書かれたのではないか、とも問題提起されてゐる。

構成

この短い文は、

  1. 眞名序
  2. 1から10條までの親鸞の言葉
  3. 10條から18條までの唯圓の意義批判
  4. 後序

といふ構成からなつてゐる。10條において、親鸞の言葉は唯圓による歎異の據り所と變つていく。以下に簡單に構造を明らかにする。

眞名序はこの文が書かれることになつた目的・由來が書かれてゐる。即ち「先師ノ口傳之眞信ニ異ナルコトヲ歎」くのである。そもそも東國の教團では善鸞の事件もあり、異義の發生しやすい土壤が合つたのが、親鸞の死によつてますますそれが加速された。主に惡を止め善にいたることが往生の路であるとする異義と、經典を學ぶことが往生の路であるとする異義である。そこで、親鸞が唯圓に語つた言葉を副へて、なぜそれが異義であるかを説明するのが、この抄であると述べる。

この「先師ノ口傳」の先師を法然と捉へる見方もある。さうすると、嘆きの主體は唯圓から親鸞に移つていくやうにも見える。

1から10條では、親鸞が直接唯圓に語つたのであらう言葉が書き連ねられてゐる。中でも、3條は惡人正機説を明快に語つたとして現在でもよく引かれる部分であるが、親鸞の言葉の多くが法然などの先人の言に由來するやうにこの部分もまた例外ではない。親鸞はただ純粹に法然の思想を我が物とし、廣めようとしただけであつた。

そこでは、罪深き人間は、なかなか學問によつて往生することはできない、であるから阿彌陀佛にひたすらすがり「南無阿彌陀佛」の六字名號を唱へ、阿彌陀にお助けしていただきなさいと法然は言つてゐたといふ。唯圓はこの言葉を關東から善鸞事件について親鸞に質す面々の合間に聞いたと思はれるが、さう言ふ面々に対し、親鸞は「親鸞におきては、たゞ念佛して彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり」「このうへは、念佛をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々のおんはからひなり」と素つ氣無い。しかしそののち、念佛することの喜びと先師が彼のやうに語つたがために私は阿彌陀の本願を信じれるに至つた、煩惱限りなく深いわれらを、阿彌陀は自らの名を掛けるものすべてを救つてくださる、その理解を超えたすばらしさを、疑ひ深き彼の弟子たちに語るのである。阿彌陀の慈悲は限りなく、そして、自らに一度でも助けを求めたものすべてに分け隔てがないし、人が念佛をするのは、阿彌陀の計らひのためであるといひ、ゆゑに親鸞には、彼自身がその人をして念佛させしめた、弟子は一人もゐないと言ふのである。

10條に於いて視點は昔日にゐる唯圓から現在の唯圓のものに戻り、いちいち異義とその異義である理由を説き始める。念佛は、阿彌陀の本願が不可思議、すなはち人間では思ひ至ることができないために、「無義をもて義とす」なのである。親鸞の教へは善行に勵み、惡を捨てよとも、惡に勵めとも言はない。因果によりて人間は惡をも善をも行ふ。百人を殺すも殺さぬも、因果によりてその人の善惡を離れてゐる。しかし、それでも阿彌陀は自らにすがるものに慈悲を授け、淨土に上らしめるのである。ゆゑに、惡行を勸めるのも善行に勵めといふのも、異義である。また、經文を讀まぬ學問せぬものは往生できないといふのも、阿彌陀の本願を無視したことである。しかし、阿彌陀の本願を無視するものでさへも、阿彌陀は救ひの手を差し伸べるとする。

後序では、一度筆を置いたと見られる唯圓が、再び筆を取つて、親鸞の言葉を再び綴る。曰く、親鸞の時代でも法然の教へは、法然に直接教へを授かつたものでさへ違ふものがゐた。親鸞法然の弟子であつたある日、親鸞が自らの信心と法然の信心は一つだと言ひ、それに親鸞のほかの弟子が文句をつけた。しかし、法然は云ふ。「阿彌陀からいただいた信心ゆえに、親鸞の信心も私の信心もひとつである」と。そして、唯圓はまた曰く「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐」したといふ。そして、「くりごとにてさふらへども」と言ひつつ、筆を置く。

再發見

この本は全く知られてゐなかつたが、江戸時代中期に荻生徂徠本居宣長などの學問の影響で再發見され、香月院深勵や妙音院了祥などの學者によつて研究が進められた。初めは深勵の「歎異鈔講林記」や、了祥の「歎異鈔聞記」の註釋書があつた。明治に入り、清澤滿之らによつて再評價され、周知されるやうになつた。

寫本

寫本としては、蓮如本、端の坊永正本などがある。原本は存在しない。蓮如本と永世本とには、助詞などの違ひが見られるが、全體の内容としては大きな違ひがある譯では無い。寫本毎の違ひでは、後序の後にある、「附録」が蓮如本にはあり、永世本にはない。蓮如本には、蓮如の署名と、「右この聖教は、當流大事の聖教と爲すなり。宿善の機無きに於いては、左右無く之を許す許からざるものなり。」との奧書がなされてゐる。これによつてかよらずか、歎異抄はこの後明治まで知られなかつたと云つてよい。