kzhr's diary

ad ponendum

築竹假名は、何に由來するかは詳しく知らないが、概ね前期築地五號を襲つてゐるといへる。内田氏明治30年ごろの博文館ものの秀英舍印刷物を參考にするとよい、と指摘してくださつたのは、その頃の活字を利用したためであらうか。『秀英體研究』に築地活版の見本帳がいくらか出てゐるため、築竹假名のグリフ修正に用ゐんと、どれを參考にしたものかといふのを探つてみんかと思ひ、比較をしてみた。


比較に用ゐた見本帳は‘Book of Specimens’ (p. 396, 1877)、‘活版見本 Specimen Book of Types’ (p. 433, 1903)である。前者はいはゆる前期五號であり*1後者は後期五號の字形を見せる。對してのディジタル・フォントはXANO明朝0.2004.0509を用ゐた。


その結果、ほぼ‘Book of Specimens’に據ればよいことが判明したが、しかし、比較するうちに二十年にわたる微妙な改刻の精緻に氣がついた。「い」の傾き一つとて、違ふ。「う」の最初の入筆も違ふ。二十年かけて、更には、秀英舍*2において最近まで改刻の刃を活字は入れられてきたのであつた。思はず唸つてしまつた。


しかし、單簡に‘Book of Specimens’に从へばよいのでもなかつた。明らかに字形が異なるものがあり、それは、「ほ」「め」「ゑ」などであつた。しかし、後期型とも異形である。そこで秀英舍の「明朝五號活字摘要録」(p. 216, 1913)を見てみると、成る程、こちらの字形なのであつた。これはなんによつてかうなつてゐるのか。今後の調査が必要であるが、奈何せん「秀英體」がメインである本であるため、この「空白地帶」の見本帳の調査によつて或程度判明するのではあらう。本日はこれにて。


追記: 同書に據れば、秀英舎鋳造部(製文堂)は、一九〇〇年(明治三十三)ころから号数体系全般にわたる意識的な改刻に着手したとある。小宮山博史府川充男・小池和夫『タイプフェイスとディジタル・フォント―築地体等仮名覆刻フォントに寄せて』(大日本スクリーン製造、2004、京都、p. 9)に掲載された、『印刷雜誌』第八卷第五号(印刷雜誌、1898)に築地活文舎が出した見本帳と比較してみたが、さらに、「こ」の圖形にも相違を發見し、‘Book of Specimens’とXANOの間で違つてゐた分も、「め」を除いて異なつた儘であつた。といふことは、既に秀英舎は改刻を試みていたことの證左であらんか。「え」などは、‘Book of Specimens’にはないが、印刷雜誌のものに萬葉假名として掲載されてゐるものと同一であり、「明朝五號活字摘要録」の「え」は、却つて形を惡くしてゐるやうにすら感じられた。製文舎時代の「五號活字見本」 (p. 356, 1889)の「え」も然り。これらを綜合すると、ORADANOは、少しづつ自社内で修正を施し始めた秀英舎の活字といふことになるのであらうか。内田氏の覺書きによれば私は幾つかの材料を組み合はせて「明治30年築地5号」を再現することを試み、Oradano明朝以降の和字としてゐる。とある。難かしい。

*1:時期は古いが質は極々優良であるため技術革新や造形のすさまじさをおもはしめるのであつた

*2:大日本印刷