今年も8月15日が過ぎた。
祖母が昨年夏に亡くなった。95歳になろうかという年であった。新型コロナ禍がはじまる手前で老人ホームに入り、ほのかにあった認知症が急激に進み、亡くなるまえの冬にひさびさに会ったときには流れるようにあらぬことを言われて感じ入ったほどであった。
祖母はいちども生まれたまちを離れて住んだことがない。20代なかばで、戦争に行っていてよく知らなかった隣家の跡取りに嫁がされ、そのまま半世紀を超えてそこに住んだ。幼少期に転居がなかったわけではないようだが、同じまちのなかの歩いて行ける距離である。
祖母は家刀自とか主婦とか呼ぶにふさわしいとわたしは思う。跡取りといっても、明治時代の家制度がむりやりに跡目を作らせただけで、家産もなにもないのに、あの世代はきょうだいいとこが多かったから、なにくれと頼りにされ、律儀にその相手をした。祖母の最後の願いは立派な葬儀で、それは果たせたと思う。事務的なことはしていないから人数やらのこまかなことは分からないが、弔問もいろいろと忝くした。
まだ祖母の元気だったころ、祖母のところに泊まって行くと、よく思い出話を聞かされたものである。昔のこまかいことを覚えているひとで、日記も米粒ほどの字で裏紙に書いていた。菓子やらなにやらの紙箱にどっさりと貯めていたが、老人ホームに入る前に自分で処分したようである。自分も記憶力はいいつもりだが、祖母には勝てそうにない。目の前のひとの名前も思い出せないことがままあって失礼を最近重ねている(悪気はないことを繰り返しておきたい)。それはともかく、その話題の大きな部分は戦禍のころの自分の話であった。
それは、わたしが大学院にまで進んでいたことがあるのだろう。そうはっきりと対比させるようなことは言わなかったが、女学校で英語をろくろく教えてもらえなかったことは何度も聞かされた。いわく、戦争で若い先生が取っていかれるので、そのつどABCからはじまってけっきょく進まないままに、祖母たちは勤労奉仕に駆り出されてしまったというのである。若かったので、いまからでも勉学をはじめることもできるのではないかと言ってみたこともあったし、父(祖母からは息子)もやたらと祖母に本を読ませたがったので、贈ってみたこともあったが、酷なことをしたと思う。
祖母たちを勤労奉仕に駆り立てた日本は侵略国家であったという単純な事実がある。祖母たちは、なにを工場で作っているかも分からないまま、あるときは工業製品となりそうな部品の整理をし、あるときは馬の肥料のなにかをしたという。それは、侵略国家の手助けを、それとよく分からないままにはせよ、したということになる。
祖母は、そのような侵略に手を貸した反省を述べたことがない。青春を奪われたことへのやるせなさのかたわら、その手が人の命を奪うことに荷担した絶望のようなことは聞いたことがない。こちらも、生前の祖母にそのことについて尋ねたりはしなかった。修身の科目は好きだったと言っていたから、すくなくともそのときは、銃後の守りを誇りに思っていたのではないかと思う。
ちなみに、さっき贈ったと言った本は『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』だった。そもそも読んだのか、読んだとして、どう思ったのかは聞いたことがない。
構造的な責任が仕方のなかったことと言って済まされることが多いことにどう向き合うべきだろうか。SNS上では、したことのむごさを強調して言うひとが多いようである(日本は単に加害者なのであって、空襲や原爆くらいで被害者性を強調するのはおかしい、など)。それによって、総括や反省を促すというのである。もちろん、WWIIがやむなきによって侵略に及んだという考え方はたしなめられなければならない。しかし、徴兵制下で教員すら捨て駒のように戦地に送られてしまうときに、日本が守っていると思っていたことの罪とはなんなのだろうか。オイディプス王のようにあれと焚きつけるものは、無垢なのかと問われてもいたしかたあるまい。そもそも、オイディプス王のように責任が取り難いのが構造的な責任というものなのだから。資本力の競争にすり替えられてしまう不買運動のやるせなさを思えばよい。
構造的な責任には、むごさによる責任感はどうしようもないのではないかと思う。やはり、仕方のなかったことではないことを根気強く説いていくしかない。本の感想を聞ける日を待っていたが、ついに来なかった。