kzhr's diary

ad ponendum

政教分離のこと

某日記の内容をうけて。意圖的かどうかは知らない*1が、政教分離を誤解して、或は誤つた意味合ひで用語を使ふのは、どうなのだらう。

政教分離は、30年戰爭などを經て、新舊キリスト教派が、公の場で宗教を持ち出してわざわざ諍ふことはしないやうにしよう、といふことでうまれた一種の教訓であつた。信じること、といふのは本質的に、「信じる/信じない」と問へるものではなくて、たとへば、〈神〉を信じるものにとつては、「〈神〉を信じますか?」といふ問ひには、「あたりまへでせう」としか答へやうがない。しかし、それをどう考へやうがその「あたりまへ」のことを「あたりまへ」であると認めないものがゐる場で、自分の「あたりまへ」を主張したら、互ひに殺しあふことさへあるだらう。それを防ぐための折衷案として政教分離が誕生した。

であるから、これは公の場、政の場では「宗教」關係のことはおほつぴらに言はないやうにしませう、といふ原則が政教分離といふことであり、「宗教=キリスト教」である・あつた歐米社會では、聖書を持ち出すことはなんら不思議な行爲ではなかつた*2し、政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい。これを日本で考へれば、日蓮宗とそれ以外の宗派のひとがゐて、互ひにその宗派について云々しない、といふことであり、すると總理大臣の靖國參拜といふ問題は、公の問題として捉へるのが妥當なのである*3

(直接的な)批判先で紹介されてしまつた。闇黒日記*4の内容を扱つたことは、今囘のやうに言及先は特に明らかにしないでだが、このまへ向かうの人と言ひ爭つたときから數度あつたが、特に扱ふ必要はないと思はれてゐたらしい。かういふ文章のときは反應してくるのかと、參考にしておく。

閑話休題。「傳統の衰退」が註2のやうな事態を招いたとするが、んなわけがない。キリスト教以外の宗教を歐米人が認める必要が出てきたからである。移民に負けた、とでも云つてしまふと、彼らの一部の人間の心情に即してゐるのではなからうか。あと、「批判對象の人間を、一般論も知らない愚か者であるかのやうに見せかける」ではなくて、「一般論は知つてゐるが、わざと外していふ」といふ意味だと思ふのだがな、「意圖的=煽り」といふ捉へかたは。

政治も祭祀も「まつりごと」

祭祀と政治は古くに分離してゐる。藤家以降*5祭祀の主體が政治も見たことはない。だからこそ、「煽り」だといふのである。

日本人に公私の區別なんてものはない。修身齊家と治國平天下とを混同するのが日本人だ。修身齊家とは「私」の領域に屬し、治國平天下とは「公」の領域に屬するものだ。この二つを、日本人は全然區別しない。

問題の核心は、ここであるやうに思はれる。「政教分離」にいふ公は、發言に責を負ふ公の場、といふ意味合ひが強い。さういふ場は、野嵜氏の云ふ公私を分かたぬ社會でも、必ずある。そもそも公の場とは、神に相對する場が興りであらう。言たがふなきを誓ひ、神の意を問ふ。それがのちに誓ふ對象は神から神聖王、神聖王から權力者へと移つてきた。日本の現状は國民へであらうか。現状、言を濁すだけなら兔も角、發言がころころ變るやうなのが閣僚になるといふのは、公がないと云つてよいのかも知れぬ。しかし、訴訟の場では明らかに公が意識されてきたし、政治の場も、建前と本音を使ひわけるのは、やはり公があるからで、建前と本音を使ひわけることで骨拔きにしようといふ發想ではなからうか。

現在の神道が傳統に即したものかは、大いに異論があるが、假に傳統である、としても、神道が國民、或は社會全てを捉へて離さないのか。少し無理があるやうに思はれる*6。それに、今の社會で神道は傳統的存在といふことにどれくらゐの社會的裏づけがあるのだらう。「日本の社會」と云ふ「文脈」に何かがあるとしたら、それは神道ではなく、何でもかんでもごつちやにする「體質」ではなからうか。

裁判所の判斷について。極めて現状主義的な判斷であると考へる。宗教として扱はれ騷動を引き起こす以上、「政教分離」に遵ひ違憲と判斷するのは、それ自體不思議なことではない。

クリスチャン(はつきり言はなかつたが、誤讀の餘地なく「日本のクリスチャン」の事である。日本國内の問題に餘所の國のクリスチャンが一々絡んで來た事はない)が「政教分離」を楯にとつて首相の靖國參拜に反對した事を俺は非難してゐる。

は、文章中言及してゐるとしたら「政治家自身の宗教は誰も問題にしてゐないと云つてよい」くらゐしかないが、短絡的に讀んでゐたやうなので、誤讀をお詫びする。

それにしても私は、野嵜氏を憎んでゐるだらうか。ゐないと思つてゐる。毛嫌ひしてるなら無視をするのが現状多いので。

*1:まあ一應意圖的=煽りと捉へて、直接的な出典の明示をしないことにする

*2:先日アメリカ合衆國で、毎日學校で星條旗に誓ふ「神の下に」を違憲ではないかとする裁判が起こつた。むべなるかな

*3:其の問題を公の問題であるかと問ふことも重要である

*4:もはや隱しても仕方がない

*5:蘇我でもいいが

*6:何かの際に「神社に行くこと」は文化と云つていいかもしれぬが、それは「神道」か? 最低限、祭りを神へのささげ物といふ意識がある必要があらうが、神社でもなんでもない學校や驛前廣場で祭りをして憚らないところ、あやしく感ぜられる。