kzhr's diary

ad ponendum

ポリコレやキャンセルカルチャーといわれない・いわせないための覚え書き

タイトルに尽きる。

キャンセルカルチャーと呼ばれるべきではない、不適切な振る舞いに対する責任を問うたのみであるという意見をさいきん目睹した。しかし、責任の問い方が抹殺一方であれば、キャンセルカルチャーと呼ばれるのもやむを得ないのではないかと思う。問われるべき責任とその果たし方についての合意形成がおざなりであるかぎり。

むずかしいかぎりではあるが、たとえば、ある研究者の学術以外に関する振る舞いに目を覆いがたい不実があるとして、そのものの地位を剥奪するのは、自浄作用のひとつであろうが、そのものがそのものによってなした重要な研究を引用しないことを正当化はしない(どう書くかはむずかしい。どんなばあいであっても、自身のアイディアではないということはかならず明記されねばならない)。学術的不実によって地位が剥奪されたものですら、引用を免除されるのは、虚偽の学術的成果に限られよう。他人の成果の詐取であれば、そのことをクレジットせねばならぬはずであるからである(そのいみで、やはり、引用文献リストによる評価は本質的に不当である)。その点で、存在を抹消してお仕舞いにしてしまえるのは、キャンセルカルチャーのそしりを免れえないものと思料する。

ポリコレについても同趣の感があり、ポリコレ的表現などというのは、追求されないための逃げを打つことであるから、そもそも配慮が行き届いていればそんな小手先の技は不要であるというのはつねづね思うところである。しかし、たとえばレジ袋の盲目的有料化のようなことが提起されることがないわけでもなく、そういうところに、ポリコレという揶揄が生き延びる隙を与えてしまう。ほとんどが言いがかりであることに違いはないのだが、しかしそれは、適正な配慮をつねに批判的に求めねばならぬこととは矛盾しない。

なお、これは非当事者の対応をどうするかという議論であるのは附言されねばならない。