*1
この記事は言語学な人々 Advent Calendar 2025の16日目である。
adventar.org
さきに断っておくと、この記事に結論らしいものはないかもしれないので、たゆたうきもちで読み解いていただきたい。なお、今回の内容は去年のアドベントカレンダー記事をお読みいただくといっそう日本語の文字の歴史について理解を得られるのではないかと思う。
旧字と旧仮名遣いの問題
『私の國語敎室』という本がある。出版社によれば、「「現代かなづかい」の不合理を論證し、「歴史的かなづかひ」の合理性と論理的一貫性を詳述して國語問題の本質を剔快した不朽の名著」だそうである*2。著者も一時期この書の影響を受けて、書くもののだいたいを旧字旧仮名で書いていた時期があった。いまでも手書きのメモは旧仮名遣いである。
旧字旧かなというとき、旧字体と旧仮名遣いがひとまとまりのもののように扱われているのは興味深い。中国語にとっての旧字体が日本語にとっての旧仮名遣いと対応するかのように扱われる。しかしながら、両者はどれほどパラレルなのだろうか。
旧字体
旧字は1949年の当用漢字字体表で旧来の活字字形をあらためたものを言う。旧来の活字字形は、康熙字典に掲出された字体およびその字体選択原理を一種の規範としているが、それは具体的には唐代の字様学からの流れを汲んでいる。唐代字様学では、『説文解字』に示される小篆の部品構成と現代の漢字とを比較して、いまのかたちが乱れていることを嘆き(くわしく説明する余裕がないので、昨年の記事を参照のこと)、あるていど恣意的に——それは字形選択においても運用においても——しかるべき漢字の構成を持つものの字体選択原理を作り上げてきた*3。だから、ある漢字にとってしかるべき部品がなんであると考えるかによって、旧字のかたちは異なってしかるべきである。
とはいえ、ひとりひとりの識見に拠るというのも喧嘩になるし、しかるべき識見を持つのもたいへんである。それに、漢字の字体になにを選ぶべきか選ばざるを得ない場面はあまりに多い*4。そこで、正しい字体を定めて一覧とし、そこに現れたものを正しいとしてみんなが使うという事態が生まれる。
このふたつは大きなちがいである。『源氏物語』と名のついた特定の本を盲従して読むのと諸本を適宜比較考量のうえ読むのとくらいちがう*5。正しいか分からないものを正しいと信じこむことだから。
ここで出土文字のことを気に病む必要はない。『説文解字』の考える字の構成要素が、出土文字によって否定されることは多数あるのも事実である。それによって『説文解字』の権威が漢字史のなかで相対化されたことも重要には相違ない。しかしながら、現代人の書く楷書字形になにを用いるとその字をよく表すのかという本義を喪ってまで追い求めるものではないだろう。出発点を忘れてはならない。
旧仮名遣い
旧仮名遣いは、1946年に公布された現代かなづかいによって改訂される前の仮名遣いをいう。旧来の仮名遣いは、江戸時代の学僧契沖によってさだめられた原理にもとづき、いまある47の仮名によって、古語の音構成にもとづいて現代の表記の原理を定めるものである。このような歴史的な経緯を重視する態度により歴史的仮名遣いともいう。
歴史的仮名遣いについて述べるとき、定家仮名遣いと呼ばれるものが引き合いに出されることが多い。定家仮名遣いはかならずしも歴史的経緯を重視せず、古書を尊重するにすぎないので、歴史的仮名遣いとしての意図は持っていないというべきである*6。
また歴史的仮名遣いについて考えるとき、奈良時代以前には日本語の音が47の仮名では表しきれなかったことについて問題になることがある。これは議論のための議論というべきだろう。いまある仮名が47なのだから、その範囲で書き表せればよい。
歴史的仮名遣いの問題として、契沖が歴史的仮名遣いの規範とした「日本紀より三代実録」*7よりあとの資料に現れた語の仮名遣いを決定できないという点、あるいは語源研究から正しいとされていた語が実例の発掘によって改められるという点がある。歴史的仮名遣いは、語の構成から仮名遣いを決めるものであるから、どちらもやむを得ないところがある。ただし、それは現代仮名遣いでも避けられないところでもあるので根源的批判とするには難しい。「いなづま」でも「いなずま」でもどちらでもいいとされていても、とくにだれも困りはしないからである。
旧字と旧仮名遣いのパラレル性
旧字と旧仮名遣いは、いずれも、古典的な時代を思い定めてそれになずらえて現代の行動を規矩しようという試みである。いちいち古典に準拠するわずらわしさは否むべくもないが、いわゆるアンチのいうほどには不合理な存在ではない。しかし、それを一覧化して正典化するには無理があったとも言える。
旧仮名遣いが旧字と異なるのは、旧字があくまで語としての同一性について問題にならず部品のくみあわせの正統性が問題になるのにたいして、旧仮名遣いは音の構成が問題になる点である(発音ではない)。それは、なにがその語の表記の正統性を定めているか考えれば想像の範囲ではあるものの、なにが出てくればそれまで正当とされてきたものが改められるかのちがいとして現れてくる。漢字においては音の差は大きな問題ではないし、仮名遣いにおいては字体の差は問題外である(平仮名でも片仮名でも漢字でも現代の仮名として同じならばよい)。
要するに、字様学は漢字の部品に古代の秩序を見、契沖は音に唐意(からごころ)の入るまえの神妙な世界を見た、ということではないだろうか。同床異夢とはこのことだろう。
*1:Nano banana proに頼ってしまった何か。
*2:それができているのかは措く
*3:そのような字様学と選ばれた字体の関係の歴史を追求した研究は管見のかぎりないようである。
*4:それはなぜかというに、正しい字体を決めることは、正しい内容を定めるうえで確乎たる基盤となるからだ。しかし、それはマイナンバーが便利であるというのとそう変わらない限界がある。
*5:むろん、定命の者として、どんなものにも精通し無限に時間をかけることもできない相談だから、特定の本に依拠せざるを得ぬ場面はだれにしもあるが、そういう話はしていない。
*6:迫野虔徳氏「仮名遣いの発生と展開」(『朝倉日本語講座2 文字・表記』朝倉書店、2005)を参照。
*7:六国史の掉尾、『日本三代実録』(901成立)より以前の資料。現代では音韻変化を加味しつつもうすこしあとのものまでも資料とする。