ポリコレやキャンセルカルチャーといわれない・いわせないための覚え書き
タイトルに尽きる。
キャンセルカルチャーと呼ばれるべきではない、不適切な振る舞いに対する責任を問うたのみであるという意見をさいきん目睹した。しかし、責任の問い方が抹殺一方であれば、キャンセルカルチャーと呼ばれるのもやむを得ないのではないかと思う。問われるべき責任とその果たし方についての合意形成がおざなりであるかぎり。
むずかしいかぎりではあるが、たとえば、ある研究者の学術以外に関する振る舞いに目を覆いがたい不実があるとして、そのものの地位を剥奪するのは、自浄作用のひとつであろうが、そのものがそのものによってなした重要な研究を引用しないことを正当化はしない(どう書くかはむずかしい。どんなばあいであっても、自身のアイディアではないということはかならず明記されねばならない)。学術的不実によって地位が剥奪されたものですら、引用を免除されるのは、虚偽の学術的成果に限られよう。他人の成果の詐取であれば、そのことをクレジットせねばならぬはずであるからである(そのいみで、やはり、引用文献リストによる評価は本質的に不当である)。その点で、存在を抹消してお仕舞いにしてしまえるのは、キャンセルカルチャーのそしりを免れえないものと思料する。
ポリコレについても同趣の感があり、ポリコレ的表現などというのは、追求されないための逃げを打つことであるから、そもそも配慮が行き届いていればそんな小手先の技は不要であるというのはつねづね思うところである。しかし、たとえばレジ袋の盲目的有料化のようなことが提起されることがないわけでもなく、そういうところに、ポリコレという揶揄が生き延びる隙を与えてしまう。ほとんどが言いがかりであることに違いはないのだが、しかしそれは、適正な配慮をつねに批判的に求めねばならぬこととは矛盾しない。
なお、これは非当事者の対応をどうするかという議論であるのは附言されねばならない。
本が出ます(3)
以下の記事の続きです。
kzhr.hatenadiary.jp
まず、刊行を予告していたものが発刊されました(『年報新人文学』については、執筆時点ではウェブに反映されていませんが、いずれここから見られるはずです)。
bensei.jp
human.hgu.jp
今回は、フォントについてすこし。
近代平仮名体系の成立 岡田 一祐(著) - 文学通信 | 版元ドットコムでは、(いわゆる)変体仮名が大量に使用されることになるわけですが、本書で書かれたもっとも古い箇所に当たる2010年ごろの原稿では、とうぜん、変体仮名は流通するPC上で変体仮名として情報交換が可能な状態にはありませんでした。情報交換が可能というのは、アルファベットのAという文字が——一定の枠組み=文字コードのもとに——Aという文字として扱われることが保障されていることですが、変体仮名は、そのような保障がないので、いわゆる外字としてしか存在してこなかったわけです*1。外字はコンピュータ単位のものなので、IMEで変換というのもとうぜんユーザ辞書レベルでしかできません*2。
ところが、2015年に日本代表からUnicode(現在流通する文字コードでもっとも普通のもの)に変体仮名の登録が申請され、審議の末に2017年に収録されると、変体仮名がPC上で使える枠組みが誕生するわけです*3。また、それに先んじて、フォントが開発され、IPAmj明朝フォント | 一般社団法人 文字情報技術促進協議会に組み込まれることとなりました。しかし、登録にさいして、変体仮名を符号化するうえでのカバー力は、今後の検討を待つこととされました。そのひとつが、学術情報交換用変体仮名 | 国立国語研究所の全部の収録の見送りです。Unicodeへの変体仮名の登録をめぐっては、学術文献での変体仮名と、戸籍などに代表される行政用の変体仮名を組み合わせて登録がされ、行政用の変体仮名はすべてが収録されましたが、学術文献のものは、区別の必要性を国際的に理解される保証がないなどのことで一字母一字体が原則とされ(高田智和氏、私信)、収録が見送られたとのことです。その当否についてここで云々はしませんが、その結果として、このような変体仮名を真正面に据えて論じる本には文字として足りないものが出てきているのは否定しがたいことです。そのようなものは、画像や外字を用いる必要がまだまだありますし、本書でも最終的には一部がそうなっています*4。
さて、本書でもちいた変体仮名フォントは、IPAmj明朝と外字にくわえて、東京築地活版製造所が明治19年ごろから用いている六号明朝から個人的に作成した仮名活字フォントがあります。これは、2005年くらいからちまちまと作り続けているもので、2017年の拙論でも使っています。変体仮名のセットとしては、デザインがもっとも整ったもののひとつです*5。2006年に一度平仮名部分は完成させましたが、クォリティがいまいちだったので、2017年の拙論が出るのにあわせて2016年ごろにいちどリファインし、このたびふたたびリファインメントを施したものを使っています。時間的余裕などの問題で、リファインメントの濃淡が出てしまったのは、悔いもありつつやむを得ないことかなと思います。増刷する日が来れば、また完成させたいものですが。
変体仮名フォントではありませんが、本書ジャケットの題名部分に用いられた「の」「と」も、やはり私製フォントです。こちらは、なんでしょうか、というところで、本日はここまで。
*1:機種依存文字というのとはちょっと違っていて、こちらは、さまざまな要因で枠組みの一貫性に問題があったりしたところから来ているもので、ある機種という枠組みにおいては、問題なく使えるが、ほかの機種では結果が保障されない(文字が変わってしまうかもしれない)という意味です。変体仮名は、TRONとかいうものの一部以外は、機種レベルでも保障がありませんでした。
*2:入力がいまなら問題ないかというと、そんなことはないのですが。
*3:そのあたりのことは、出版物/『漢情研』第17号 - JAETにもうすこしくわしく書いてあります。なお、注2の山田俊雄は、都竹通年雄の誤りです。
*4:正確には、組版上の都合から、現代の平仮名に無理矢理当てはめたフォントとなっており、フォントが切り替わるとその箇所には「字体化け」が発生することになります。電子出版に際しては、画像化の手当が必要です。
『人文情報学月報』「Digital Japanese Studies寸見」第71回「DH Awards 2020開催」補遺
今回の月報の連載では、DH Awards 2020について取り上げたが、紙幅のつごうもあり、すべての候補作を取り上げることができなかった。以下では、そののこりを取り上げて補遺としたい。
dhawards.org
Best Use of DH for Public Engagement(一般参加)部門では、30件の応募があった。
- Inicio | Antología litElat #1は、ラテン・カリブアメリカにかかわるe文学の集成を目指したもの。
- An AR Story Map of Japanese Comfort Stations in Nanjing during World War II (利济巷)は、南京大ARマッピングプロジェクトによる南京の慰安所に関する地図やアプリなどとのことであるが、稿者の環境では期待したようには動かなかった。
- Garden of … Knowledge for Humanity – In Kepler's Gardensは、メディアアートにかかわる祭典や賞を運営するArs Electoronicaが人文学と社会を結ぶ交点を提供すべく開催しているトークシリーズ。時事的な話題も見受けられる。
- ArtyHum Revista Digital de Artes y Humanidadesは、芸術と文学にかかわる西文電子雑誌。
- Bans, Raids, Walls, Sanctuaryは、現代米国社会にかんする書籍のサポートサイト。補足として年表などが提供される。
- Blood Libel: On The Trail of an Antisemitic Mythもやはり書籍のサポートサイトで、中世ヨーロッパにおけるユダヤ人差別を論ずる。インフォグラフィックスなどが提供される。
- Cork LGBT Archive Interactive Tour Mapは、市民参加の記録。アイルランドのコーク市におけるLGBTコミュニティの活動の歴史を記録するものとなっている。
- What was a ‘machine’? Crowdsourcing ‘Living with Machines’は、19世紀イギリスの機械に関する新聞記事のクラウドソーシングによる電子化プロジェクトで、目的を完遂したようである。
- DHARTIは、インドでの大学内外でのDH教育のための組織。
- Digital Holocaust Memoryは、市民間のホロコーストの記憶継承にむけた取組み。ゲームやDiscordサーバがあるのが印象的。
- Diskursmonitorは、言論のモニタリングツールで、用語集や総説、言説の信頼性についての自動計測器?などがある。
- Feral Atlasは、書籍のコンパニオンサイトであるが、単独でもじゅうぶんに楽しめる。「人新世」ともいわれる、人類のもたらした世界への影響についてのアート作品である。
- Hands on Readingは、ログインを要求されて中身を確認できなかった。
- Home - per sezioni - I conti con la Storiaは、テレビと人種の歴史ということであろうか、歴史的映像が多い。
- Investigating Indentured Servitude: Visualizing Experiences of Colonial Americaは、アメリカ合衆国独立前の年期奉公人についての記録のテーマ的可視化。
- Just How White Is the Book Industry?は、アメリカ合衆国の書籍市場における白人支配についての論説。
- Life Stories Virtual Exihibitonは、ビクトリア大学のコレクションのなかから、人生のステージやそれにかんする儀礼についての視覚的・物質的文化を取り上げたバーチャル展覧会である。
- Locating Queer Memoriesは、バルセロナにおけるLGBTQの経験を地図化したもの。国際的な同時代関係や時代背景についても簡単に説明されている。
- Mapping Memories of Africvilleは、カナダの黒人に対する暴力の地として記憶される、Africvilleにかんする記憶の永続化のこころみ。
- Modeling Mesoamericaは、メソアメリカ地域の考古学遺物のレプリカモデルをそのものとして受け止めるバーチャル展示。
- NY 1920s: When We Became Modernは、(ニューヨーカーが)100年前のじぶんたちを見つめることでニューヨークの近代を考えようというもの。
- Raising the Volume!: Amplifying Soul of Reasonは、1970年代のラジオ番組のデータセットで、文字起こしソン(transcribe-a-thon)を行ったり、ウィキデータのエディタソンを行ったりするコミュニティ参加型イベントのみならず、学生に奨学金を出してデータの分析を促したりなどしたもの。
- Smarthistoryは、カーンアカデミーの美術史情報サイトで、世界一の集客数を誇る公共美術史サイトであるということである。カーンアカデミーは、無料のオンライン学習サイト。
- Startwordsは、ブログよりもうすこし形式的であるが、雑誌よりは実験的な場で、「実験人文学」のための場であるという。
- Storia dei Carabinieriは、イタリア・カラビニエリの歴史についてのポッドキャストシリーズ。
- The Papers of Martin Van Burenは、アメリカ合衆国第8代大統領ヴァン・ビューレン文書の翻刻プロジェクト。とくに一般参加は募っていないように見受けられる。
- THE RESEMBLAGE PROJECTは、resembrance、assemblage、ageの鞄語であるresemblageの語によって、スカーバロー地区を舞台に、老化についての語りを交錯させるこころみであるという。
- TIDE Salonは、発見の時代(日本では大航海時代と呼ばれる)の歴史を象る重要な用語をアーティストに提示して、協同で作品を作るこころみであるという。
- Tribesourcingfilm.comは、部族の協力を得て(=tribesourcing?)、偏見を隠さずに制作された過去のアメリカ・インディアンの映画を重層的なナラティブのもとに歴史的なものとして位置づけようとしたこころみ。
- Wabash Medievalistsは、ウォバシュ大学の中世学者たちのクラスの長年にわたる記録をするもののようである。
Best DH Response to COVID-19(COVID-19への応答)部門では、19件の応募があった。ぱっと見ただけでは特徴が分りにくい。稿者の印象にもとづいて、グループ分けをしたので、それで紹介に代える。グループの順序は順不同である。グループ内の順序は、DH Awardsでの紹介順とする。
- アーカイビング系:Coronarchiv、Corona Archive @ Kansai University – コロナアーカイブ@関西大学、Pandemic Religion: A Digital Archive、Social Distancing in a world of Memes、Sounds of COVID、Visionary Futures Collective
- イベント系:DARIAH Virtual Exchange Event、Digital Art History Summer School 2020、Twitter Conference “DH in the Time of Virus”
- 議論・調査(論説・フォーラム)系:DHAll Discord Server、Digital Pedagogy in the Humanities、Museums in time of COVID-19、Point of Equilibrity、The Epidemic Flow: Cases and Places、Trans Media, Digital Humanities, and World Literature Project of NRF-GRN、Vaxxers、WARCnet Papers
- ガイド系:Important Public Health Messages from the Data-Sitters Club about COVID-19、Storyhaven
本が出ます(2)
前回の記事でご案内した本*1は、もともとは博士論文として書かれたものでした。リンク先から読めますが、検定制度と仮名字体の関係を描いた、中心となる論文3篇+αという感じでした。そこから、こんな壮大な書名を持つ本がどうやってでてきたかといえば、まあタイトルが先にあったわけですけれども、その後の5年、迷いつつも調べてきたことが奇跡的に実を結んだのだと思います。新しく加わった内容は、そのような新しいタイトルを支えるものとできたと自負していますが、どうでしょうか。
本書のテーマとしてはどのように現代の平仮名がこのようなかたちを取るにいたったのかについての歴史的探究にありますが、それをあきらかにするためにはさまざまな章が必要となりました。それらの章は、おおよそ年代順に並べてあるので、テーマ的にストレートには読みにくいかもしれません。そのときは、序章と第二章、最終章をよくお読みいただき、流れを摑んでいただければよいかもしれません。
補論をはじめ、寄り道がすこし多くなってしまった気もします。わたしにとっては大事な内容ですが、読者の皆様にもそうであってほしいと思っています。
本書の姉妹編として、
が同じくらいか本書よりあとに出ます。そちらもよろしくお願いいたします。
ちょっと思い出的なことも書こうかと思ったのですが、ちょっとまだ感慨深すぎてうまくことばにならないのでこのへんで。
*1:岡田一祐(2021)『近代平仮名体系の成立: 明治期読本と平仮名字体意識』文学通信
本が出ます
- 作者:岡田 一祐
- 発売日: 2021/02/26
- メディア: 単行本
紹介等は出版社ウェブサイトをご覧下さい: 岡田一祐『近代平仮名体系の成立 明治期読本と平仮名字体意識』(文学通信) - 文学通信
Eighteen years with Wikipedia
This is notes for a coming event.
It was a slashdot article that brought it to my attention that has been there ever since. Honestly, it was the second time that I saw it. The first time was a disappeared HotWired Japan's coverage that focused on English Wikipedia (You can read it in Internet Archives from a link in an article for Japanese Wikipedia in Japanese Wikipedia itself). As its headline tells, it was a topic that 1,000 articles were simply counted in the project. Nothing more than that. There were no articles on basic articles at all so that I could ‘create’ an article for Human Being, Islam, etc. I was a junior high school student then, who just passed an entrance exam for high school—meaning that I had a lot of time. The majority of my contributions to Japanese Wikipedia were made during the two years since the encounter: After I retired from administratorship in 2005 for the preparation of university examinations, my contribution to that project became occasionally. However, I am still an admin for two its sister projects, and relate in some way*1. In this sense, Wikipedia is what is being there for me.
I was not active in its community development, not authored single policy or even guideline*2. It was because I was so nervous that I could make a consensus in the community, and what is worse, I was—or has been—so lazy to raise a discussion for a problem. Anyway, I can't remember what was my contribution to the community as a member of the community. I did some translation for the Wikimedia Foundation, who is responsible for the running of the projects. It includes messages for the annual fundraising campaigns, Wikimanias (an annual conference of the Wikimedia projects), and so forth. My first commitment to Wikimedia's fundraising campaign was, If I can recall it correctly, the server crisis of 2004—which led to the creation of the Wikimedia Foundation, I remember[citation needed]*3. As an administrator, I was active in vandalism fighting, what I am doing now in other projects. And I was long a participant to an IRC channel in Freenode, a chat system popular in the geek world, I think. There I talked a lot, including important issues off-wiki (outside of the Wikipedia—the official channel was either on Wikipedia's wiki or the official mailing list). Some called the Freenode channel a cabal, blaming that important issues were discussed and decided informally there. I don't know what they meant.
Personally, I was lucky in that I could be one among pioneers in Japanese Wikipedia. If I join now, I can hardly survive in tons of rules. It sounded brilliant when I saw the idea, "every single person can freely share in the sum of all human knowledge". I wholeheartedly hope that every rule should contribute to this idea, not for short-sighted communities.
*1:Oh, I was among the executive committee in the Wikimedia Conference Japan 2009 event with Ao Komoriuta.
*2:Because it was in the early days, drafting or translating a new policy or guideline was an important commitment to the community development.
*3:As a matter of fact, it appeared not to be an actual cause of the transition to the Foundation from Jimmy Wales' small company. I can't recall why I thought so.
時刻合わせ over Proxy
qiita.com
をやってみたけど、date --set
はGNU dateのオプションのようであるし、wget
はさいきんのMacにはすくなくともデフォルトで入っていない。ということで、macOS Catalina版のメモ。
sudo date -f "%s" "$(curl -s https://ntp-a1.nict.go.jp/cgi-bin/jst | sed -n 4p | cut -d. -f1)"
Launchdに登録するplist版。
<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <!DOCTYPE plist PUBLIC "-//Apple//DTD PLIST 1.0//EN" "http://www.apple.com/DTDs/PropertyList-1.0.dtd"> <plist version="1.0"> <dict> <key>Label</key> <string>com.ntpOverProxy</string> <key>ProgramArguments</key> <array> <string>/path/to/ntpOverProxy.sh</string> </array> <key>StartInterval</key> <integer>1200</integer> </dict> </plist>
shのファイルにはsudoはいらないはず? 時刻未指定で1200秒なのは、ネットワークの治安の問題による。
なお、精度は……。組織内NTPもないのに、NTPを止めるようなProxyサーバーなどないのがもっとも望ましいのは言うまでもない。